五六年七月、為替局(現在の国際金融局)の財務調査官としてアルゼンチン、ニューヨークに出張して帰国した大月高は、羽田空港に出迎えにきている顔ぶれを見て、思わずわが日を疑った。
彼が所属していた為替局ではなく、銀行局の官僚たちばかりだったからだ。
「あなたは今日から銀行局担当の財務調査官(現在の審議官)になられました」有無をいわぬ強引な人事だった。
もっとも役人生活十九年の大月は「こうした将棋の駒のような役所流人事には慣れていた」。
銀行局財務調査官。
という新役職に戸惑った。
それまで銀行局にはグ財務調査{日。
というポストはなかったからだ。
「つまり金融制度の見直しをやれという含みでして、そのままズルズル金融制度調査会の事務局長という厄介な役割に踏み込まされてしまったのですよ」(大月高)円の司祭の座二大蔵省S日銀の暗闘この金融制度調査会で日銀のあり方が検討され、日銀法の改正論議にまで発展するのだが、大蔵省が占領政策の落とし子的で暖昧な金融制度の改編を図るための特別プロジェクトを発足させたのは、元事務次官だったI田勇人が大蔵大臣になり、I田と周期のY際正道が大蔵官僚(次官)として戦後初の日銀総裁に就任したのと同じ時期だった。
日銀押さえ込みが着々と大蔵省側で論障を張ったのは、大蔵きっての理論家で経済学博士号も取っていた下村治「金融政策の最終責任は政府にあって、中央銀行といえどもその管理・監督下にあるのは当特その意味では現行の日銀法を改訂する必要などない」「占領政策の落とし子のような政策委員会こそ廃止して、公定歩合の変更なども、もと通り政府の認可一事項に戻すべき」だと強く求めた。
それに立ち向かった日銀側の論客はM本重雄(金融制度見直しのために設置された特別審議室室長)で「日銀法は、大東亜戦争遂行のための戦時立法で、当然全面的に改正すべき」だと打ち上げて、大蔵省の下村と真っ向からぶつかった。
「政策委員会の廃止などとんでもないこと。
日銀の中立性をもっと強化すべきで、日本のように総裁、副総裁を内閣がいつでも解任できる強権を持っている国は、少なくとも先進国には例がない。
ともかく政府の命令権認可権をできる限り減らすべきだ」総裁が大蔵省から天下ったことが日銀マンたちの危機感を強めさせたのか、逆に反大蔵の闘志を燃え上がらせたようで、大蔵相手に一歩も譲らずに頑張り、後半はむしろ大蔵勢を押し返して日銀が優勢になっている。
その結果、六五年九月に、金融制度調査会は日銀には政府の指示権が必要だとする案(大塵と、それに反対する案(日銀)を併記した答申を出すという異常な事態でムリヤリに幕を降ろしている。
こう記すと、大蔵・日銀戦争は痛み分けで勝負なしとなったかにみえるのだが、表舞台のル−ル戦争ではさんざん苦戦しながら、大蔵省は舞台裏では、I田・Y際の特別パイプが機能したためか、実質的に着々と日銀押さえ込みの実頼を上げているのである。
たとえば、表舞台の戦いでは大蔵省の介入を排除しつづけていた公定歩合の変更についても、五八、五九年と外貨準備高が危険水域といわれる十五億ドルを割り、貿易収支もやっとわずかな黒字を記録するとたちまち赤字に逆戻りというありさまで、日銀は何度となく引き上げ。
を図ろうとしたのだが、結果としてはいずれも引き下げられてしまっている。
むろんI田蔵相の積極財政、低金利政策に強引に従わされたわけで得なかった現象だ。
六0年七月、宏保騒動で岸首相が退いてI田政権が生まれると、日銀が意に反して公定歩合の引き下げ。
を強いられるとい、局面がますます多くなった。
池悶政権が所得倍増計画を打ち出して、そのために徹底した低金利政策を取ったからだ。
まるで政府の意のままに操られているように見えるY際総裁に対して、マスコミはロボット総裁のニックネームを進呈し、日銀を大蔵省本石町出張所。
と呼ぶようになった。
日銀マンたちは戦後初といえる強烈な屈辱感を味わわされたわけだが、前記のようなニックネームが生まれるきっかけとなった、きわめつけ的な事件を紹介しておこう。
六一年、高度成長を文句にして出発したI田政権下の日本は二年日にして貿易収支が赤字に転じてしまった。
それも五億五千八百万ドルと、八年ぶりの大赤字だった。
この兆候は、実は六一年の年明け早々から現れていて、日銀は公定歩合の引き上げを画したのだが、結果的には、逆に二度にわたって引き下げさせられてしまっている。
もちろんI田内閣(大蔵大臣水田三喜男)が力ずくで日銀の思惑害』封じ込んで信用状上の収支が一億ドル以上の赤字になり、五月には為替収支がはじめて赤字に転じて、日銀内部には「断固公定歩合を大幅に引き上げて過熱している内需を抑制すべきだ」という声が充満し、日銀プロパ−の幹部たちが猛然とY際総裁を突き上げた。
「内需を思いきって抑制すれば輸入が落ちるので貿易収支が堅苦できる」というわけだ。
だが、高度成長景気振興が売り物のI田内閣としては、当然、内需抑制策などのめるはずがなく、日銀の強い意向を黙殺して逆に公定歩合引き下げの思惑さえ示した。
そこで、さしものY際総裁も憤慨してヨーロッパに出かけてしまった。
六一年九月のことだ。
もちろん、Y際のヨーロッパ行きにはウィーンで聞かれた世銀総会に出席という名パリの休日などが含まれていて、当時の関係者たちは「I田政府と日銀プロパ!の間でもみくちゃにされて嫌気がさし、つかの間の日本逃亡を企てた」のだと見ている。
ちょうどY際がグ日本脱出を敢行した噴、I田政府はやっと貿易赤字が容易ならぬ状態にあることを、公定歩合引き上げやむなしと決断し、その旨を日銀に伝えた。
少なくともタテマエ上は公定歩合の変更は政策委員会が行うことになっていて、その議長が不在では引き上げはできないわけだ。
こうした政府の強引なやり方にはY際も反発を示して「帰国しない。
勝手にやればいい」とみせたが、結局、帰国して、しかも日銀の思惑とはかけ離れた、わずか日歩一厘の引き上げ。
という政府のシナリオ通りをのまされている。
まさにロボット総裁ぶりを発揮してしまったわけだ。
もっとも解任は成功しなかったが、政府大蔵省は舞台裏では、着々と日銀押さえ込みの実績をあげていたのである。
金融界の事情通たちによれば「I田首相は、後半に下からの突き上げもあって日銀側に揺らいだY際に代えて、意のままになる人物を選んだ」のだということだが、誇り高い日銀幹部たちにすれば、市中銀行はいわば。
下請け業者。
で、その頭取を総裁として迎えるというのは屈辱以外の何ものでもなかった。
当時の幹部たちは匿金前提で「日銀を土足で踏みにじられた思いだった」と洩らしていた。
こうした円戦争の歴史を改めて点検すると、六四年(昭和三十九年)というのが何とも興味深い年だということがわかる。
この年の十月には第十八回オリンピック大会が開催され、その開会に間に合うようにと突貫工事が行われて十月一日に東海道新幹線(東京〜大阪)が営業を開始しているが、円戦争の関係者たちにとっては、それ以上に大きな意味を持つ。
事件が数多く起きている。
四月に、日本は念願の経済協力開発機構への正式加盟も認められた。
やっと国際的に一人前の国家として認知されたわけだ。
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